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俳句鑑賞16

 俳句雑誌「滝」11月号より

    ファントムの飛び交う畑地蚯蚓鳴く   米澤恵美子


世の中が安定してくると、戦争や生活苦や人生の苦しみの句は見られなくなり、
神社仏閣や花鳥諷詠が主となる。
だいたい俳句などやろうとする方々は生活に恵まれた人が多い。
私など最低ラインの生活をしていてもまだ余裕があるから不思議である。

私は、血を流す戦いには絶対反対を貫く反戦主義者である。
軍備は必要がないと考える。軍備は守るためではなく、戦争を誘起する原因となるだけである。

朝鮮は日本に攻め入られたが、軍で対応しようとはしなかった。35年も苦渋を舐めたのである。

兵器で戦っていたらもっと死者が出ていたであろう。戦いは武器無くして出来る。
無抵抗主義とは戦わない思想ではない。

防衛に使われる予算が福祉や医療に使われたらどんなに豊かな国になるだろうか。

蚯蚓(みみず)には発音器官はない。体が擦れ合って出る音かもしれない。

戦闘機の音より純心で可愛らしいではないか。

俳句鑑賞16

俳句雑誌「滝」11月号より


    今年また梨売りの小屋にあの翁   米澤恵美子



    落ち胡桃拾ふ老人今年見ず   高橋栄子


確実に老人社会に突入し、私もその仲間入りをした。
元気良く今年も生き抜いた方もあれば、病に臥し亡くなられる方も多く、
世の定めとはいえ実に哀しいことである。

いつまでもお元気であるためには、まず足腰であろう。
幸い私の父は93歳まで歩くことが出来た。まだ生きられたものを
病院の禍診療で命を落としてしまった。

脳の老化は特に著しい!私もミスが大変多くなってきた。
集中力が無くなり、頭を使うとかり疲労を感じるのである。
目も悪くなった。最後まで自分を管理できるか大いに疑問である。


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俳句鑑賞15

俳句雑誌「滝」11月号より


    無患子の実を拾い来て手を洗ふ    尾崎鉄次郎


「無患子」ムクロジ、俳句でもやっていなければ読めない読み方だ。
私も漢字の読み書きは全くといって駄目で、小学生以下である。

落葉樹のムクロジはまあ見たことがない。手を洗う・・これは拾った後であろう。
実はムクロジの果皮にはサポニンが含まれているのか、洗剤の様に泡立ち、昔は石鹸代わりに使ったようだ。大量に拾った事はないが、手に粘りつくような感覚があったのかもしれない。
常緑樹の中で生活していると、秋の実と楽しめるのは実に羨ましい景色である。

    新松子茂吉の駅の賑やかさ    佐藤珱子


「新松子」これも読めない。「しんちぢり」だ。

松ぼっくりのまだ青い段階のもので、「ちちり」とは松かさの事を言うそうだ。
鱗片状になった一つ一つが雌花だが、種はこの鱗片状のものに挟まれている
だけでむき出しの状態だ。従って裸子植物と言われる。種は2年かけて大きくなるので、
枝の先は今年も松ぼっくりと言うことになる。

茂吉記念館前駅と言う長い名前の無人駅があるらしい。
山形県上山市奥羽本線で茂吉の生家があるようだ。私は東北地方に足を運んだことがない。

何か催し物でもあったか観光客ななか不明であるが、駅前に松ノ木があったのでしょう。
上山温泉にでも浸かりながらゆっくり旅を楽しみたいものだ。


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俳句鑑賞14

 俳句雑誌「滝」11月号


    小上がりに並ぶ瓢や三次会    佐々木經義



小上がりなどと言う言葉は小料理などで使われえる粋な表現だ。このような所を利用される方であろう。
そこに瓢(ふすべ)が並べてある。かなり高級な料理屋であろう。
瓢箪愛好家も沢山いるが、愛嬌のある植物である。
三次会にごく少人数で談笑するひと時は羨ましい。良い句だな!


    耐えがたきほどの孤独や曼珠沙華    齋藤理絵



秋の曼珠沙華の群生を見ても明るさや華やかさは感じられない。
黄泉の世界に誘なわれる思いもする。

作者はそれに孤独を重なり合わせた。
孤独とは一人生活なのであろうか、それとも集団の中での孤独であろうか。

どちらにしても自分を理解してくれる他人がいないことが孤独の原因であることに変わりがない。

私も一人暮らしであり、一日中会話の無い日が続く。

人間は集団生活をする哺乳類の中では特異な脳を持っている。
孤独に耐えられない、あるいは孤独と対峙して生きなくてはならない動物なのである。



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俳句鑑賞13

俳句雑誌「滝」11月号より

今晩はハイドンのシンフォニーの練習であった。ハイドンはモーツアルトの大先輩であり、
彼によってシンフォニーのスタイルは確立されてと言われている。旋律性はモーツアルトに
及ばないが、曲の構成力は素晴らしいものがある。

薄の俳句を二句挙げてみた。

    一本のすすきを挿せば風たちぬ    成田清治

挿すとは花瓶などにさすことだが、一本と言う言葉が薄に焦点が当たって素晴らしい。
薄を挿すと風が吹いてきた、と言うわけだが。風が吹いて来たかどうかは問題ではない。
薄が風に実にマッチした情景である。薄が生き生きしている。まさに詩情である。


    活けられて山の荒さを脱ぐ芒    勝見捴一郎

 活けるとは活け花のことであり、他の花と一緒に水盤などに活けるわけだ。
薄は背が高いから、当然花の後ろに高く位置する。
前に他の花を低く活ける。全体が調和していなくてはならない。

山の荒さとは野生の荒々しい薄の群れを言うのかもしれない。そこから数本抜き出して室内に置かれた瞬間、薄は野外のものではなくなる。

脱ぐと言う表現は俳句入門書では擬人的で好ましくないと言われる。

俳句には「あれはだめ」「これはだめ」と禁止事項が多すぎる。
何の為に俳句であろうか?型破りこそ俳句ではないだろうか。

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俳句鑑賞12

俳句雑誌「滝」11月号より

    一遍像あはや踏み出すか鉦叩   山崎真中


一遍像がどこにあったかは不明であるが、彼の人生を調べると実におもしろい。
生まれは四国松山道道後温泉奥となっている。10歳で出家をし、50歳で亡くなるまで
仏道一筋の人生であった。(一時還俗したが)

一遍と言えば「時宗」の開祖であり、踊念仏と念仏札によって極楽浄土に導いたとして有名であるが、
彼は教団を設立しようなどと言った意思は全く無かったようだ。
富や名声など求めない真の宗教家と言えるであろう。

鉦叩が読めなかった。一遍が持ちあるいた物かと思ったりした。
秋の季語で昆虫のカネタタキのことであった。
以下のホームページで姿や泣き声を聞くことが出きる。

一遍像の下にいたのであろうか?
1cm余りの虫で昼間ではなかなか見つからないであろう。


http://homepage3.nifty.com/shirakobato-network/log/20061020.html


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俳句鑑賞11

俳句雑誌「滝」11月号より


   尺八の調子はづるる穴惑ひ   内山貴美子

「穴惑い」は秋の季語でまだ穴に入らない蛇の事である。
先日、山中でシマヘビを見つけた。
昔我が家にも蛇がいたが、今はもういない。

尺八と蛇の穴とは関係がない。調子はづるるとは音程が悪いか音を間違えたわけだが、
音程なら息の問題だし、音の違いは穴の抑えに関係する。

蛇の穴と尺八の穴とを掛けたか、尺八のメロディーが蛇の動きのようにくねくねしていたのかもしれない。

私もリコーダーやケーナをかじったことがあるが、息のコントロールが大変難しい。
速いパセージは指が回らない。なんでも若いうちですね。



   正座する前に京菓子薄紅葉   佐藤珱子


正座となれば茶会であろう。私は体重が増えて正座が困難となった。しかも七月股関節を人工関節にしたため、正座は出来るが、すっと立つことが出来なくなった。筋肉が衰えているためだ。
日本文化は正座の中にある。様式スタイルとなって正座が困難な時代となったことは悲しいことだ。

私も表千家で少し茶道をかじったことがあるが、作法を重視すれば心が失われる。
どうも昔の先生は心を教えずに手さばき足裁きに関心があるようだ。
そんなもの少し外れても、茶の心や自然と一体となった人間のあり方を学ぶことが重要であろう。
  

   「京菓子を愛でて濃茶や薄紅葉」 山葵


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俳句鑑賞10

 俳句雑誌「滝」11月号より


曼珠沙華一番星と繋がれり    鈴木ひびき  


もう曼珠沙華は終わってしまったが、今年もよく咲いた。
曼珠沙華の朱の色は夕方に映える。一番星が出た頃、川端一面に咲いた曼珠沙華が
実に見事であったことでしょう。
現在花は無いが、もうじき緑色をした葉が一面に出てくるから不思議である。


はじけたる栗の毬よりアベマリア   斉藤淑子


栗の毬とアベマリアとの取り合わせは斬新だ。特に関連性は感じられないが、はじけた栗の毬から
2,3個の栗が見えたのであろうか。新たな種子の誕生をイエスの誕生とだぶらせたのかもしれない。
果実は時が来るまで食べられては困る。だから栗は毬で子供を守るのだが、しかし、種子は親の足元では育たない。遠くへ運んでもらわないと困るのである。

痛い栗の毬も上手く運ばれるかもしれない。中には食べられずに発芽の機会をうるものもあるであろう。
三大アベマリアとは、シューベルト、グノー、カッチーニ であるが、どれも名曲だ。
若い頃はシューベルトのアベマリアに惚れこんだものだ。



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俳句鑑賞9

 俳句雑誌「滝」11月号より

洗ひたる雨畑硯秋の風   菅原 祥

 雨畑(あめはた)は山梨県富士川沿い52号線から早川沿いに西に上り、
さらに支流雨畑川に沿って南下する。
丁度日蓮宗本山身延の西、七面山の西側にあたる。
雨畑川の水は静岡市の北部山塊より端を発し北上する。

早川沿いは地溝(フォッサマグナ)が縦貫しており、良質の粘板岩が産出される所である。

硯は石が緻密で粒子が細かいこと、水を吸収しないことが条件で、雨畑の硯がそれに適しているのでしょう。

墨を摺るのに力をかけてはいけない。柔らかく滑るように手を動かす、
こんな時間が我々に欠けてしまった。


陳列の嫁入り道具萩の花   中川 浩子

嫁入り道具・・・懐かしい言葉である。嫁入り道具の規模で、実家の経済力を誇示した時代があった。
現在、道具を持ち込むことは無くなった。必要最小限の家電と家具があれば事足りるのである。
嫌な引越しの度に大量の家具を運ぶ必要もない。

今年は萩の花をろくに見なかった。なにかしら寂しさを感じさせる花だ。
かつての嫁入りの栄華も、結婚衣装も人々も消えてもはやここにはない。
ただ萩の花だけが咲いている。

俳句鑑賞8

俳句雑誌 滝 11月号より
紫蘇の実をしごき明日を考える   鴨 睦子

明日を考える・・・・人は明日に悩む動物ですね。未来が見え、見ようとすることが出来る動物だと思います。
他の動物は未来を考える力も過去を見つめる目もありません。
人間はこの時間軸の上で生きております。だから悩み苦しむのであり、また夢や希望を持って生きがいとしているんですね。

明るい明日があることを望みたいですね。


強北風に朱の奪はれし土偶かな 菅原 鬨也


土偶に朱が塗られていたんですね。朱は時の変化ではげてくるものです。
奈良の寺院も朱で塗られていたわけですが、朱は落ちてしまいました。

朱が落ちた風景を我々は日本的だと思っておりましたし、朱や緑の色彩は異国風情と信じておりました。

朱は中南米の先住民にとっても重要な色であることを考えると、民族に共通した色への想いがあるのかもしれません。

塗りなおす事無くそのままにあることに意味があります。

強北風が朱を飛ばしたわけではないが、この季語が実によく生きている。
俳句は韻文なんですね。
  
プロフィール

mandarina001

Author:mandarina001
自己流で俳句を始めた初心者ですが、俳句にもいろいろなスタイルがあってびっくりいたしました。

「感性は皆素晴らしいのですから、下手な俳句なんてありません」、これが私の俳句に対する考え方です。

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